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Episode 1 · 夜勤明けの睡眠と光のコントロール

Episode 1:山岸詩織、看護師、29歳

#夜勤#睡眠#看護師#連載小説

第1話 夜が明けても眠れない

 自動ドアが開いた瞬間、朝が殴りかかってきた。

 六月の光。容赦がない。十六時間ぶりの外気を吸い込んだ皮膚が、湿度にべたつく。目を細めた。身体がまだ蛍光灯の下にいるつもりでいる。

 詩織は溜息をひとつ吐いて、駅に向かって歩き始めた。

 今夜の戦績。322号室の斎藤さん、点滴ルート自己抜去2回。末梢が細い上に認知が入ってきていて、夜間は特にいじる。シーネで固定したが、3時の巡回で右手が血まみれになっていた。本人はにこにこして「あら、赤いわねえ」と言っていた。

 301号室の田中さん。午前1時、「胸が苦しい」でナースコール。心電図に変化なし。呼吸数28、手のしびれ——過換気。呼吸法を一緒にやって、落ち着くまで40分。田中さんは「すみません」と繰り返した。「いいんですよ」と私は言った。嘘じゃなかった。

 4時台に後輩が早朝採血で2回失敗した。患者さんの顔がこわばったから「代わるね」と入って、一発で決めた。4年目にもなると、手だけは嘘をつけるようになる。

 ——特別なことは何もない。内科病棟の夜勤の「普通」は、こういう密度でできている。


 向こうからスーツの群れが歩いてくる。一日が始まる顔をした人たち。私の一日は、もう終わりかけている。

 駅前の横断歩道で信号を待った。ふと、路地の入り口に小さな看板が見えた。文字までは読まなかった。信号が青になって、そのまま通り過ぎた。

 電車に乗った。座れた。スマホを開くと、彼から連絡が来ていた。

 「今日夜ごはん食べない?」

 夜。彼の「夜」は19時のことだ。仕事を終えてから出かけようか、という意味の「夜」。

 私の「夜」は今この瞬間だ。朝の8時半だけど、これから部屋を暗くして眠りにつく。起きるのは昼過ぎ。夕方にようやく人間に戻って、彼の「夜」が始まる頃には、私は次の夜勤に向けて仮眠の算段をしている。

 「今日夜勤明けなんだ」と打ちかけて、指が止まった。何回目だろう、この説明。

 彼は悪い人じゃない。理解しようとしてくれている。でも「理解しようとしている」と「分かっている」のあいだには、思ったより深い溝がある。それを言葉にすると不満に聞こえそうで、飲み込む。飲み込んだものが、最近すこしずつ喉に溜まっている。

 「ありがとう、でも今日は寝るね」

 それだけ返して、スマホを伏せた。


 帰宅。シャワーの前に、洗面台の鏡を見た。

 見なければよかった。

 目の下の影が、もう「クマ」というより沈着に近い。頬の吹き出物が先週から治らないまま、隣にもう一つ増えている。生理も先月は5日遅れた。今月もまだ来ない。

 婦人科に行こうと思ったことは2回ある。2回とも、夜勤の翌日で、起きたら予約の電話をする気力が残っていなかった。

 「たぶん、ストレスと睡眠不足でしょ」

 鏡の中の自分に言った。鏡の中の自分は、ひどい顔で頷いた。


 遮光カーテンを引いた。端と壁のあいだから細い光が一本、漏れている。いつもそうだ。完全な暗闘にはならない。

 ベッドに倒れた。目を閉じた。

 ——斎藤さんの固定、日勤帯に申し送ったけど、あの貼り方で伝わっただろうか。田中さんの過換気、精神科コンサルトの話が出るかもしれない。後輩のフォロー、来週また夜勤が一緒だ——

 目を開けた。まだ20分しか経っていない。

 スマホに手が伸びた。「夜勤明け 眠れない」と検索した。「概日リズムを整えましょう」「朝食をしっかり摂りましょう」「カフェインは避けましょう」。知っている。全部知っている。看護師だから知識としてはある。でも今夜も3時にコーヒーを飲んだ。飲まなきゃ5時の巡回まで持たなかった。

 スマホを置いた。目を閉じた。今度こそ。


 3時間後。目が覚めた。

 天井。昼の光。カーテンの隙間から漏れた線が、枕元に届いている。

 身体はまだ重い。でも眠りに戻る気配はない。「もっと寝なきゃ」と思うほど、意識が浮いてきて沈まなくなる。

 起き上がって水を飲んだ。冷蔵庫を開けた。今は朝なのか昼なのか。胃がどの時間の食事を求めているのか分からなかった。

 ——何かが、ずれている。

 病気じゃない。たぶん。ただ、歯車が一つ二つ噛み合わなくなっている。睡眠、肌、生理、彼との時間。どれも致命的じゃない。どれも「まあ、こんなもんでしょ」で流せる範囲に、ぎりぎり収まっている。

 でも、「ぎりぎり」が定位置になっている。

 それは正常なんだろうか。

 分からなかった。分からないまま、天井を見ていた。


次回:「鏡の中の他人」

第2話 鏡の中の他人

 次の夜勤まで中1日。「休日」と呼ぶには短すぎる空白だ。

 昼過ぎに起きた。正確には、昼過ぎまで横になっていた。眠れたのは断続的に4時間くらいだと思う。スマホのアラームは止めてあった。止めていても関係なかった。身体が勝手に起きる。

 洗面台に立った。

 鏡の中に知らない人がいる——というのは大げさだけど、半年前の自分の写真と並べたら、たぶん同一人物に見えない。肌のキメが消えている。頬の吹き出物は赤みを持ったまま居座っていて、コンシーラーでは隠しきれない。唇の色が悪い。首のあたりに細かい湿疹が出ている。

 看護師だから、理屈は分かる。睡眠が乱れると成長ホルモンの分泌が落ちる。肌のターンオーバーが崩れる。自律神経がおかしくなれば皮脂のバランスも変わる。教科書に書いてあることだ。

 教科書通りに壊れていくのを、教科書の知識では止められない。その皮肉が、いちばん堪える。


 彼から電話が来たのは、15時だった。

 「昼休みに抜けてる。今日の夜、どう?」

 声が明るい。昼休みの明るさだ。仕事が順調で、天気がよくて、夜にはビールが飲みたい——そういう種類の明るさ。

 「うん、行こうか」

 断る理由がなかった。正確には、断る理由はいくつもあったけれど、それを説明する労力と、説明した後の気まずさを考えると、行くほうが楽だった。

 18時に待ち合わせ。渋谷の、彼が見つけたイタリアン。

 支度をしながら、鏡の前でファンデーションを重ねた。一度、二度。厚塗りになっていく。半年前は下地と薄いパウダーだけで出かけていた。あの頃の自分を思い出そうとして、うまく思い出せなかった。


 彼は笑顔で手を振った。「久しぶり」

 2週間ぶりだった。前回会ったのも私の夜勤明けの日で、映画を観に行って、私は開始20分で寝落ちした。彼は怒らなかった。怒らない代わりに、少しだけ黙った。その沈黙のほうが、怒られるよりきつかった。

 パスタを食べた。彼は会社の話をしてくれた。新しいプロジェクトのこと、上司が面白い人だということ、来月チームで合宿があること。私は相槌を打ちながら、ワインを一口飲んだ。

 「詩織は最近どう?」

 「うん、まあ、普通かな」

 普通。便利な言葉だと思った。

 「なんか顔色悪くない? ちゃんと寝てる?」

 彼の目が、私の目の下を見ていた。ファンデーションで隠したはずの影を、見抜いている。いや、隠しきれていなかったのかもしれない。

 「寝てるよ。夜勤明けだから、ちょっとね」

 「前も同じこと言ってた」

 そうだったかもしれない。

 「有給とか取れないの?」

 取れる。制度上は。でも人が足りない。夜勤の穴を埋めるのは別の誰かで、その誰かにも生活がある。私が休めば誰かの夜勤が増える。その構造を知っているから、「休めばいいじゃん」という言葉が軽く聞こえる。軽く聞こえてしまう自分が嫌だ。彼は悪くない。

 「まあ、そのうちね」

 彼は何か言いかけて、やめた。フォークでパスタを巻きながら、小さく息を吐いた。

 その吐息を、私は正確に聞き取った。観察は職業病だ。あれは「言っても伝わらない」と判断したときの息だ。患者さんの家族が、説明を聞いた後に見せる表情と似ている。

 デザートは断った。「ちょっと胃もたれしてて」

 嘘じゃなかった。最近、食後に胃が重い。食べる時間が不規則だからだと思う。思うけど、それも「たぶん」の一つだ。


 彼と別れて、駅に向かった。

 22時。ここから帰って、明日は日勤で7時起き。睡眠時間を逆算する。帰宅23時、寝る準備をして23時半、起床6時半——7時間。悪くない数字だ。数字だけは。問題はその7時間が本当に眠れるかどうかで、最近の打率は5割を切っている。

 ホームで電車を待ちながら、今日の自分を振り返った。

 彼の話にちゃんと笑えていただろうか。相槌は自然だっただろうか。「普通」と答えたとき、彼は信じただろうか。信じていないから、顔色の話をしたんだろう。

 ——いつから、人と会うのに予習と復習が必要になったんだろう。

 電車に乗った。窓に映った自分の顔がぼんやり見えた。蛍光灯の下の、疲れた顔。病棟の照明の下で見慣れた、あの顔だ。鏡の中にいる知らない人。


 最寄り駅で降りた。

 改札を出て、いつもの道を歩く。アパートまで7分。その途中、信号を渡って——

 足が止まった。

 路地の入り口。この前、夜勤明けの朝に見た看板。あのとき読まなかった文字が、今夜は街灯に照らされて読めた。

 「Lumen」

 小さな看板だった。木の板に、白い文字。それだけ。派手さはない。ただ、路地の奥に暖色の光がぼんやりと漏れているのが見えた。

 24時間営業、と小さく書いてある。

 こんな場所にカフェがあったのか。何年もこの道を通っていたのに、気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれない。目に入っていても、見ていなかっただけで。

 今日は、見えた。

 入ろうとは思わなかった。でも、看板の前に5秒くらい立っていた。路地の奥から、かすかにコーヒーの匂いがした。それか、そう思い込んだだけかもしれない。

 アパートに帰った。シャワーを浴びて、ベッドに入った。

 目を閉じた。今日も眠れるか分からない。分からないけれど、路地の奥の暖色の光が、まぶたの裏にぼんやり残っていた。


次回:「最初の一杯」

第3話 最初の一杯

 夜勤明け。朝の8時半。

 自動ドアを出た瞬間の光は、いつも通り暴力的だった。でも今日は少しだけ違った。

 足が、いつもと違う方向に向いた。

 駅前の信号を渡って、右に曲がる。いつもなら真っ直ぐ駅に向かう。でも今日は、路地の入り口で足が止まった。

 「Lumen」。木の看板。白い文字。

 3日前の夜、ここで立ち止まった。あのときは入らなかった。今日も入るつもりはなかった。ただ、16時間の夜勤のあと、真っ直ぐ帰って眠れないベッドに倒れるのが、今日はどうしても嫌だった。

 路地を歩いた。10メートルほど。突き当たりに木の扉があって、小さなガラス窓から暖色の光が漏れていた。

 開けた。


 中は、思ったより狭かった。

 カウンター6席に、二人がけのテーブルが2つ。それだけ。照明は暖色のペンダントライトで、天井が低い分、光が近い。壁は古いレンガ調で、棚にはコーヒー豆の缶と、ハーブティーのガラス瓶が並んでいた。BGMはピアノのインスト。音量が絶妙に低い。聞こうとすれば聞こえるけれど、邪魔にはならない。

 カウンターの中に、一人の男性が立っていた。

 白髪混じりの短髪。痩せ型。白シャツにエプロン。清潔だけど気取ってはいない。年齢は50手前か、少し過ぎたあたりか。顔立ちは穏やかだが、目だけは静かに鋭い。

 「いらっしゃい」

 声は低く、平温だった。歓迎でも警戒でもない。ただ「来たね」という事実だけを受け取ったような声。

 「おひとりですか」

 「はい」

 カウンターの端に座った。朝の8時半に24時間営業のカフェに一人で来る客に、何も聞かない。それがありがたかった。


 メニューを開いた。コーヒー、紅茶、ハーブティー。ここまでは普通だ。でもその下に、見慣れない名前が並んでいた。

 「眠りのブレンド」「覚醒のドリップ」「整えるスープ」「胃を休める粥」

 何だこれ、と思った。カフェのメニューというより、処方箋みたいだ。

 「決まりましたか」

 マスターが聞いた。

 決まらなかった。コーヒーを頼めばいい。それが一番普通だ。でも今、普通のコーヒーが飲みたいわけじゃない気がした。かといって「眠りのブレンド」を頼む自分を認めるのも、少し抵抗があった。

 「……おすすめってありますか」

 逃げた。自分でも分かっていた。

 マスターは私の顔を一瞬見た。それから目元、首筋、手元。視線が動いたのは1秒もなかったと思う。でも、何かを読み取ったように見えた。

 「夜勤明けですか」

 「——分かりますか」

 「靴の履き方で」

 意味が分からなかった。自分の足元を見た。スニーカーの踵を踏んでいた。出がけに直す余裕がなかった。いや、違う。直す気力がなかった。

 「ひとつ、作りましょうか」

 頷いた。メニューの名前は言われなかった。


 マスターが動き始めた。

 カウンターの中での動きは無駄がなかった。ガラスの瓶からハーブを二種類取り出して、小さな秤で量った。ポットに湯を注ぎ、蓋をして、砂時計を返した。3分。

 その3分間、私は何もしなかった。スマホも出さなかった。ただ、砂が落ちるのを見ていた。病棟では3分あれば点滴の残量確認と体位変換ができる。ここでは、砂が落ちるのを見るだけでいい。

 その「だけでいい」が、想像より深く効いた。

 砂時計が止まった。マスターがカップに注いだ。薄い琥珀色の液体。湯気が細く立っている。

 「カモミールとパッションフラワーです。甘みが欲しかったら蜂蜜があります」

 受け取った。両手で包んだ。カップが温かかった。

 一口飲んだ。

 ——なんだこれ。

 美味しい、とか、そういう感想じゃなかった。うまく言えない。味は優しい。草の匂いがほんのりする。でもそれより、飲んだ瞬間に身体の奥のどこかが「ああ」と言った気がした。張っていた何かが、一段だけ緩んだ。

 マスターはカウンターの中で静かに片付けをしていた。話しかけてこなかった。「いかがですか」とも聞かなかった。

 それが心地よかった。


 カップを半分ほど飲んだところで、私は口を開いていた。

 「最近、眠れなくて」

 言うつもりはなかった。言った後で驚いた。職場では言わない。彼にも言わない。「眠れない」と口にすると、それが事実として確定してしまう気がして、ずっと避けていた。

 マスターは顔を上げた。

 「眠れない、というのは」

 間があった。

 「寝つけないのか、途中で起きるのか」

 質問の仕方が、医者みたいだった。問診の入り方だ。

 「……両方です。寝つくのに時間がかかって、寝ても3時間で起きます」

 「夜勤のあと」

 「はい」

 マスターは小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。

 「もう一杯飲んで帰ったら、少し眠れるかもしれません」

 断言しなかった。「眠れます」とは言わなかった。「かもしれません」。その言い方が、なぜか信頼できた。


 2杯目を飲み干して、店を出た。路地を抜けると、朝の光がまた目を刺した。でも、さっきより少しだけ柔らかく感じた。気のせいかもしれない。

 帰宅して、ベッドに入った。カーテンを閉めた。いつもの隙間から光の線が一本。

 目を閉じた。

 斎藤さんのルートのことを考えかけて、やめた。やめられたのは初めてだった。カモミールの残り香が鼻の奥にある。身体の奥のあの「ああ」という感覚が、まだかすかに残っている。

 眠れるかどうかは分からない。

 でも、今日は少しだけ、「眠れなくてもいい」と思えた。


次回:「落としたシリンジ」

第4話 落としたシリンジ

 それは、夜勤の12時間目に起きた。

 午前4時。採血の準備をしていた。305号室の高橋さん、早朝採血オーダー。生化学とCBC。翼状針、ホルダー、スピッツ2本。手順は4年間で何百回と繰り返してきた。目を閉じてもできる。

 目を閉じてもできるはずだった。

 トレイを持って廊下を歩いているとき、指がすべった。翼状針のパッケージがトレイから落ちた。滅菌パッケージだから中身は無事だ。拾えばいい。それだけのことだ。

 でも、落とした。

 4年間で初めてではない。誰だって落とす。でも今日は、落ちたパッケージを見下ろしたまま、1秒か2秒、動けなかった。拾うという動作の指令が、頭から手に届くまでに遅延があった。

 それが怖かった。


 採血自体は問題なく終わった。高橋さんの血管は太くて真っ直ぐで、駆血帯を巻けば浮き出る。一発で入った。ラベルを貼って、提出して、記録をつけた。手順通り。

 でも、廊下に戻ったとき、膝が少しだけ笑っていた。

 疲労だと思った。12時間の立ち仕事の蓄積。それだけだ。そう言い聞かせた。ナースステーションに戻って、椅子に座って、電子カルテの画面を見た。文字が一瞬にじんだ。目をこすった。焦点が戻った。

 隣に座っていた先輩の川嶋さんが、こっちを見た。

 「山岸さん、顔色悪いよ」

 「大丈夫です。ちょっと目が乾いて」

 「コンタクト?」

 「はい」

 嘘だった。コンタクトのせいじゃない。でも「コンタクト」と言えば、それ以上は聞かれない。看護師は察しがいい。察しがいいから、相手が嘘をついているのも分かる。川嶋さんは「ふうん」とだけ言って、視線を戻した。

 信じたわけじゃないだろう。ただ、踏み込まなかった。夜勤中に同僚のメンタルに踏み込む余裕は、誰にもない。それも、この仕事の「普通」だ。


 明け方の6時、仮眠室で15分だけ横になった。

 横になっただけだ。眠れなかった。天井のシミを数えた。3つ。前も3つだった。仮眠室は暗いけれど、蛍光灯のスイッチの隙間から緑の小さな光が見えている。あの光が気になって眠れないのか、眠れないからあの光が気になるのか、もう分からなかった。

 15分後、アラームが鳴る前に起き上がった。顔を洗って、ナースステーションに戻った。

 「おかえり、寝れた?」

 川嶋さんが聞いた。

 「はい、少し」

 また嘘をついた。今日何回目だろう。


 8時半。申し送りを終えて、病院を出た。

 朝の光。六月の朝の光。またこれか、と思った。この光が嫌いなわけじゃない。ただ、16時間分の疲労を背負った身体に、この明るさは情報量が多すぎる。

 駅に向かって歩いた。信号を待った。

 目の端に路地が映った。

 Lumen。

 3日前、あそこでハーブティーを飲んだ。カモミールとパッションフラワー。飲んだあと、少しだけ眠れた。4時間。いつもの3時間より1時間多かった。たったの1時間。でも、あの1時間で目覚めたときの身体の軽さは、ここしばらく忘れていた感覚だった。

 今日も寄ろうか。

 足が路地のほうに向きかけて、止まった。

 何を期待しているんだろう、と思った。ハーブティー1杯で何が変わるわけでもない。あの日眠れたのは、たまたまかもしれない。疲労の蓄積がちょうどピークで、限界を超えて眠りに落ちただけかもしれない。マスターに話を聞いてもらったからって、何が解決したわけでもない。「眠れるかもしれません」。あれはただの社交辞令かもしれない。

 看護師は知っている。プラセボ効果というものがあることを。期待が身体に作用することを。つまり、あの1時間の睡眠は、カモミールじゃなくて「カモミールを飲んだ私の期待」が生んだものかもしれない。

 だとしたら、それは本物の改善じゃない。

 ——でも。

 でも、4年間の知識で止められなかったものが、あの一杯の夜だけ1時間伸びたのは事実だ。プラセボだろうが何だろうが、4時間眠れた朝の身体は楽だった。それは理屈じゃなくて、実感だ。

 路地の入り口に立っていた。看板が見えた。木の板に白い文字。

 入ろうか。やめようか。

 信号が青になった。

 私は、真っ直ぐ駅に向かった。今日は帰ろう。寝られるかどうか、まずは自分で試してみる。

 電車に乗った。座れた。目を閉じた。

 まぶたの裏に、路地の奥の暖色の光がちらついた。落としたシリンジのパッケージが、廊下の床で白く光っていたのと、同じくらいの鮮明さで。


次回:「強がりの代償」

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