第1話 夜が明けても眠れない
自動ドアが開いた瞬間、朝が殴りかかってきた。
六月の光。容赦がない。十六時間ぶりの外気を吸い込んだ皮膚が、湿度にべたつく。目を細めた。身体がまだ蛍光灯の下にいるつもりでいる。
詩織は溜息をひとつ吐いて、駅に向かって歩き始めた。
今夜の戦績。322号室の斎藤さん、点滴ルート自己抜去2回。末梢が細い上に認知が入ってきていて、夜間は特にいじる。シーネで固定したが、3時の巡回で右手が血まみれになっていた。本人はにこにこして「あら、赤いわねえ」と言っていた。
301号室の田中さん。午前1時、「胸が苦しい」でナースコール。心電図に変化なし。呼吸数28、手のしびれ——過換気。呼吸法を一緒にやって、落ち着くまで40分。田中さんは「すみません」と繰り返した。「いいんですよ」と私は言った。嘘じゃなかった。
4時台に後輩が早朝採血で2回失敗した。患者さんの顔がこわばったから「代わるね」と入って、一発で決めた。4年目にもなると、手だけは嘘をつけるようになる。
——特別なことは何もない。内科病棟の夜勤の「普通」は、こういう密度でできている。
向こうからスーツの群れが歩いてくる。一日が始まる顔をした人たち。私の一日は、もう終わりかけている。
駅前の横断歩道で信号を待った。ふと、路地の入り口に小さな看板が見えた。文字までは読まなかった。信号が青になって、そのまま通り過ぎた。
電車に乗った。座れた。スマホを開くと、彼から連絡が来ていた。
「今日夜ごはん食べない?」
夜。彼の「夜」は19時のことだ。仕事を終えてから出かけようか、という意味の「夜」。
私の「夜」は今この瞬間だ。朝の8時半だけど、これから部屋を暗くして眠りにつく。起きるのは昼過ぎ。夕方にようやく人間に戻って、彼の「夜」が始まる頃には、私は次の夜勤に向けて仮眠の算段をしている。
「今日夜勤明けなんだ」と打ちかけて、指が止まった。何回目だろう、この説明。
彼は悪い人じゃない。理解しようとしてくれている。でも「理解しようとしている」と「分かっている」のあいだには、思ったより深い溝がある。それを言葉にすると不満に聞こえそうで、飲み込む。飲み込んだものが、最近すこしずつ喉に溜まっている。
「ありがとう、でも今日は寝るね」
それだけ返して、スマホを伏せた。
帰宅。シャワーの前に、洗面台の鏡を見た。
見なければよかった。
目の下の影が、もう「クマ」というより沈着に近い。頬の吹き出物が先週から治らないまま、隣にもう一つ増えている。生理も先月は5日遅れた。今月もまだ来ない。
婦人科に行こうと思ったことは2回ある。2回とも、夜勤の翌日で、起きたら予約の電話をする気力が残っていなかった。
「たぶん、ストレスと睡眠不足でしょ」
鏡の中の自分に言った。鏡の中の自分は、ひどい顔で頷いた。
遮光カーテンを引いた。端と壁のあいだから細い光が一本、漏れている。いつもそうだ。完全な暗闘にはならない。
ベッドに倒れた。目を閉じた。
——斎藤さんの固定、日勤帯に申し送ったけど、あの貼り方で伝わっただろうか。田中さんの過換気、精神科コンサルトの話が出るかもしれない。後輩のフォロー、来週また夜勤が一緒だ——
目を開けた。まだ20分しか経っていない。
スマホに手が伸びた。「夜勤明け 眠れない」と検索した。「概日リズムを整えましょう」「朝食をしっかり摂りましょう」「カフェインは避けましょう」。知っている。全部知っている。看護師だから知識としてはある。でも今夜も3時にコーヒーを飲んだ。飲まなきゃ5時の巡回まで持たなかった。
スマホを置いた。目を閉じた。今度こそ。
3時間後。目が覚めた。
天井。昼の光。カーテンの隙間から漏れた線が、枕元に届いている。
身体はまだ重い。でも眠りに戻る気配はない。「もっと寝なきゃ」と思うほど、意識が浮いてきて沈まなくなる。
起き上がって水を飲んだ。冷蔵庫を開けた。今は朝なのか昼なのか。胃がどの時間の食事を求めているのか分からなかった。
——何かが、ずれている。
病気じゃない。たぶん。ただ、歯車が一つ二つ噛み合わなくなっている。睡眠、肌、生理、彼との時間。どれも致命的じゃない。どれも「まあ、こんなもんでしょ」で流せる範囲に、ぎりぎり収まっている。
でも、「ぎりぎり」が定位置になっている。
それは正常なんだろうか。
分からなかった。分からないまま、天井を見ていた。
次回:「鏡の中の他人」
第2話 鏡の中の他人
次の夜勤まで中1日。「休日」と呼ぶには短すぎる空白だ。
昼過ぎに起きた。正確には、昼過ぎまで横になっていた。眠れたのは断続的に4時間くらいだと思う。スマホのアラームは止めてあった。止めていても関係なかった。身体が勝手に起きる。
洗面台に立った。
鏡の中に知らない人がいる——というのは大げさだけど、半年前の自分の写真と並べたら、たぶん同一人物に見えない。肌のキメが消えている。頬の吹き出物は赤みを持ったまま居座っていて、コンシーラーでは隠しきれない。唇の色が悪い。首のあたりに細かい湿疹が出ている。
看護師だから、理屈は分かる。睡眠が乱れると成長ホルモンの分泌が落ちる。肌のターンオーバーが崩れる。自律神経がおかしくなれば皮脂のバランスも変わる。教科書に書いてあることだ。
教科書通りに壊れていくのを、教科書の知識では止められない。その皮肉が、いちばん堪える。
彼から電話が来たのは、15時だった。
「昼休みに抜けてる。今日の夜、どう?」
声が明るい。昼休みの明るさだ。仕事が順調で、天気がよくて、夜にはビールが飲みたい——そういう種類の明るさ。
「うん、行こうか」
断る理由がなかった。正確には、断る理由はいくつもあったけれど、それを説明する労力と、説明した後の気まずさを考えると、行くほうが楽だった。
18時に待ち合わせ。渋谷の、彼が見つけたイタリアン。
支度をしながら、鏡の前でファンデーションを重ねた。一度、二度。厚塗りになっていく。半年前は下地と薄いパウダーだけで出かけていた。あの頃の自分を思い出そうとして、うまく思い出せなかった。
彼は笑顔で手を振った。「久しぶり」
2週間ぶりだった。前回会ったのも私の夜勤明けの日で、映画を観に行って、私は開始20分で寝落ちした。彼は怒らなかった。怒らない代わりに、少しだけ黙った。その沈黙のほうが、怒られるよりきつかった。
パスタを食べた。彼は会社の話をしてくれた。新しいプロジェクトのこと、上司が面白い人だということ、来月チームで合宿があること。私は相槌を打ちながら、ワインを一口飲んだ。
「詩織は最近どう?」
「うん、まあ、普通かな」
普通。便利な言葉だと思った。
「なんか顔色悪くない? ちゃんと寝てる?」
彼の目が、私の目の下を見ていた。ファンデーションで隠したはずの影を、見抜いている。いや、隠しきれていなかったのかもしれない。
「寝てるよ。夜勤明けだから、ちょっとね」
「前も同じこと言ってた」
そうだったかもしれない。
「有給とか取れないの?」
取れる。制度上は。でも人が足りない。夜勤の穴を埋めるのは別の誰かで、その誰かにも生活がある。私が休めば誰かの夜勤が増える。その構造を知っているから、「休めばいいじゃん」という言葉が軽く聞こえる。軽く聞こえてしまう自分が嫌だ。彼は悪くない。
「まあ、そのうちね」
彼は何か言いかけて、やめた。フォークでパスタを巻きながら、小さく息を吐いた。
その吐息を、私は正確に聞き取った。観察は職業病だ。あれは「言っても伝わらない」と判断したときの息だ。患者さんの家族が、説明を聞いた後に見せる表情と似ている。
デザートは断った。「ちょっと胃もたれしてて」
嘘じゃなかった。最近、食後に胃が重い。食べる時間が不規則だからだと思う。思うけど、それも「たぶん」の一つだ。
彼と別れて、駅に向かった。
22時。ここから帰って、明日は日勤で7時起き。睡眠時間を逆算する。帰宅23時、寝る準備をして23時半、起床6時半——7時間。悪くない数字だ。数字だけは。問題はその7時間が本当に眠れるかどうかで、最近の打率は5割を切っている。
ホームで電車を待ちながら、今日の自分を振り返った。
彼の話にちゃんと笑えていただろうか。相槌は自然だっただろうか。「普通」と答えたとき、彼は信じただろうか。信じていないから、顔色の話をしたんだろう。
——いつから、人と会うのに予習と復習が必要になったんだろう。
電車に乗った。窓に映った自分の顔がぼんやり見えた。蛍光灯の下の、疲れた顔。病棟の照明の下で見慣れた、あの顔だ。鏡の中にいる知らない人。
最寄り駅で降りた。
改札を出て、いつもの道を歩く。アパートまで7分。その途中、信号を渡って——
足が止まった。
路地の入り口。この前、夜勤明けの朝に見た看板。あのとき読まなかった文字が、今夜は街灯に照らされて読めた。
「Lumen」
小さな看板だった。木の板に、白い文字。それだけ。派手さはない。ただ、路地の奥に暖色の光がぼんやりと漏れているのが見えた。
24時間営業、と小さく書いてある。
こんな場所にカフェがあったのか。何年もこの道を通っていたのに、気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれない。目に入っていても、見ていなかっただけで。
今日は、見えた。
入ろうとは思わなかった。でも、看板の前に5秒くらい立っていた。路地の奥から、かすかにコーヒーの匂いがした。それか、そう思い込んだだけかもしれない。
アパートに帰った。シャワーを浴びて、ベッドに入った。
目を閉じた。今日も眠れるか分からない。分からないけれど、路地の奥の暖色の光が、まぶたの裏にぼんやり残っていた。
次回:「最初の一杯」
第3話 最初の一杯
夜勤明け。朝の8時半。
自動ドアを出た瞬間の光は、いつも通り暴力的だった。でも今日は少しだけ違った。
足が、いつもと違う方向に向いた。
駅前の信号を渡って、右に曲がる。いつもなら真っ直ぐ駅に向かう。でも今日は、路地の入り口で足が止まった。
「Lumen」。木の看板。白い文字。
3日前の夜、ここで立ち止まった。あのときは入らなかった。今日も入るつもりはなかった。ただ、16時間の夜勤のあと、真っ直ぐ帰って眠れないベッドに倒れるのが、今日はどうしても嫌だった。
路地を歩いた。10メートルほど。突き当たりに木の扉があって、小さなガラス窓から暖色の光が漏れていた。
開けた。
中は、思ったより狭かった。
カウンター6席に、二人がけのテーブルが2つ。それだけ。照明は暖色のペンダントライトで、天井が低い分、光が近い。壁は古いレンガ調で、棚にはコーヒー豆の缶と、ハーブティーのガラス瓶が並んでいた。BGMはピアノのインスト。音量が絶妙に低い。聞こうとすれば聞こえるけれど、邪魔にはならない。
カウンターの中に、一人の男性が立っていた。
白髪混じりの短髪。痩せ型。白シャツにエプロン。清潔だけど気取ってはいない。年齢は50手前か、少し過ぎたあたりか。顔立ちは穏やかだが、目だけは静かに鋭い。
「いらっしゃい」
声は低く、平温だった。歓迎でも警戒でもない。ただ「来たね」という事実だけを受け取ったような声。
「おひとりですか」
「はい」
カウンターの端に座った。朝の8時半に24時間営業のカフェに一人で来る客に、何も聞かない。それがありがたかった。
メニューを開いた。コーヒー、紅茶、ハーブティー。ここまでは普通だ。でもその下に、見慣れない名前が並んでいた。
「眠りのブレンド」「覚醒のドリップ」「整えるスープ」「胃を休める粥」
何だこれ、と思った。カフェのメニューというより、処方箋みたいだ。
「決まりましたか」
マスターが聞いた。
決まらなかった。コーヒーを頼めばいい。それが一番普通だ。でも今、普通のコーヒーが飲みたいわけじゃない気がした。かといって「眠りのブレンド」を頼む自分を認めるのも、少し抵抗があった。
「……おすすめってありますか」
逃げた。自分でも分かっていた。
マスターは私の顔を一瞬見た。それから目元、首筋、手元。視線が動いたのは1秒もなかったと思う。でも、何かを読み取ったように見えた。
「夜勤明けですか」
「——分かりますか」
「靴の履き方で」
意味が分からなかった。自分の足元を見た。スニーカーの踵を踏んでいた。出がけに直す余裕がなかった。いや、違う。直す気力がなかった。
「ひとつ、作りましょうか」
頷いた。メニューの名前は言われなかった。
マスターが動き始めた。
カウンターの中での動きは無駄がなかった。ガラスの瓶からハーブを二種類取り出して、小さな秤で量った。ポットに湯を注ぎ、蓋をして、砂時計を返した。3分。
その3分間、私は何もしなかった。スマホも出さなかった。ただ、砂が落ちるのを見ていた。病棟では3分あれば点滴の残量確認と体位変換ができる。ここでは、砂が落ちるのを見るだけでいい。
その「だけでいい」が、想像より深く効いた。
砂時計が止まった。マスターがカップに注いだ。薄い琥珀色の液体。湯気が細く立っている。
「カモミールとパッションフラワーです。甘みが欲しかったら蜂蜜があります」
受け取った。両手で包んだ。カップが温かかった。
一口飲んだ。
——なんだこれ。
美味しい、とか、そういう感想じゃなかった。うまく言えない。味は優しい。草の匂いがほんのりする。でもそれより、飲んだ瞬間に身体の奥のどこかが「ああ」と言った気がした。張っていた何かが、一段だけ緩んだ。
マスターはカウンターの中で静かに片付けをしていた。話しかけてこなかった。「いかがですか」とも聞かなかった。
それが心地よかった。
カップを半分ほど飲んだところで、私は口を開いていた。
「最近、眠れなくて」
言うつもりはなかった。言った後で驚いた。職場では言わない。彼にも言わない。「眠れない」と口にすると、それが事実として確定してしまう気がして、ずっと避けていた。
マスターは顔を上げた。
「眠れない、というのは」
間があった。
「寝つけないのか、途中で起きるのか」
質問の仕方が、医者みたいだった。問診の入り方だ。
「……両方です。寝つくのに時間がかかって、寝ても3時間で起きます」
「夜勤のあと」
「はい」
マスターは小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。
「もう一杯飲んで帰ったら、少し眠れるかもしれません」
断言しなかった。「眠れます」とは言わなかった。「かもしれません」。その言い方が、なぜか信頼できた。
2杯目を飲み干して、店を出た。路地を抜けると、朝の光がまた目を刺した。でも、さっきより少しだけ柔らかく感じた。気のせいかもしれない。
帰宅して、ベッドに入った。カーテンを閉めた。いつもの隙間から光の線が一本。
目を閉じた。
斎藤さんのルートのことを考えかけて、やめた。やめられたのは初めてだった。カモミールの残り香が鼻の奥にある。身体の奥のあの「ああ」という感覚が、まだかすかに残っている。
眠れるかどうかは分からない。
でも、今日は少しだけ、「眠れなくてもいい」と思えた。
次回:「落としたシリンジ」
第4話 落としたシリンジ
それは、夜勤の12時間目に起きた。
午前4時。採血の準備をしていた。305号室の高橋さん、早朝採血オーダー。生化学とCBC。翼状針、ホルダー、スピッツ2本。手順は4年間で何百回と繰り返してきた。目を閉じてもできる。
目を閉じてもできるはずだった。
トレイを持って廊下を歩いているとき、指がすべった。翼状針のパッケージがトレイから落ちた。滅菌パッケージだから中身は無事だ。拾えばいい。それだけのことだ。
でも、落とした。
4年間で初めてではない。誰だって落とす。でも今日は、落ちたパッケージを見下ろしたまま、1秒か2秒、動けなかった。拾うという動作の指令が、頭から手に届くまでに遅延があった。
それが怖かった。
採血自体は問題なく終わった。高橋さんの血管は太くて真っ直ぐで、駆血帯を巻けば浮き出る。一発で入った。ラベルを貼って、提出して、記録をつけた。手順通り。
でも、廊下に戻ったとき、膝が少しだけ笑っていた。
疲労だと思った。12時間の立ち仕事の蓄積。それだけだ。そう言い聞かせた。ナースステーションに戻って、椅子に座って、電子カルテの画面を見た。文字が一瞬にじんだ。目をこすった。焦点が戻った。
隣に座っていた先輩の川嶋さんが、こっちを見た。
「山岸さん、顔色悪いよ」
「大丈夫です。ちょっと目が乾いて」
「コンタクト?」
「はい」
嘘だった。コンタクトのせいじゃない。でも「コンタクト」と言えば、それ以上は聞かれない。看護師は察しがいい。察しがいいから、相手が嘘をついているのも分かる。川嶋さんは「ふうん」とだけ言って、視線を戻した。
信じたわけじゃないだろう。ただ、踏み込まなかった。夜勤中に同僚のメンタルに踏み込む余裕は、誰にもない。それも、この仕事の「普通」だ。
明け方の6時、仮眠室で15分だけ横になった。
横になっただけだ。眠れなかった。天井のシミを数えた。3つ。前も3つだった。仮眠室は暗いけれど、蛍光灯のスイッチの隙間から緑の小さな光が見えている。あの光が気になって眠れないのか、眠れないからあの光が気になるのか、もう分からなかった。
15分後、アラームが鳴る前に起き上がった。顔を洗って、ナースステーションに戻った。
「おかえり、寝れた?」
川嶋さんが聞いた。
「はい、少し」
また嘘をついた。今日何回目だろう。
8時半。申し送りを終えて、病院を出た。
朝の光。六月の朝の光。またこれか、と思った。この光が嫌いなわけじゃない。ただ、16時間分の疲労を背負った身体に、この明るさは情報量が多すぎる。
駅に向かって歩いた。信号を待った。
目の端に路地が映った。
Lumen。
3日前、あそこでハーブティーを飲んだ。カモミールとパッションフラワー。飲んだあと、少しだけ眠れた。4時間。いつもの3時間より1時間多かった。たったの1時間。でも、あの1時間で目覚めたときの身体の軽さは、ここしばらく忘れていた感覚だった。
今日も寄ろうか。
足が路地のほうに向きかけて、止まった。
何を期待しているんだろう、と思った。ハーブティー1杯で何が変わるわけでもない。あの日眠れたのは、たまたまかもしれない。疲労の蓄積がちょうどピークで、限界を超えて眠りに落ちただけかもしれない。マスターに話を聞いてもらったからって、何が解決したわけでもない。「眠れるかもしれません」。あれはただの社交辞令かもしれない。
看護師は知っている。プラセボ効果というものがあることを。期待が身体に作用することを。つまり、あの1時間の睡眠は、カモミールじゃなくて「カモミールを飲んだ私の期待」が生んだものかもしれない。
だとしたら、それは本物の改善じゃない。
——でも。
でも、4年間の知識で止められなかったものが、あの一杯の夜だけ1時間伸びたのは事実だ。プラセボだろうが何だろうが、4時間眠れた朝の身体は楽だった。それは理屈じゃなくて、実感だ。
路地の入り口に立っていた。看板が見えた。木の板に白い文字。
入ろうか。やめようか。
信号が青になった。
私は、真っ直ぐ駅に向かった。今日は帰ろう。寝られるかどうか、まずは自分で試してみる。
電車に乗った。座れた。目を閉じた。
まぶたの裏に、路地の奥の暖色の光がちらついた。落としたシリンジのパッケージが、廊下の床で白く光っていたのと、同じくらいの鮮明さで。
次回:「強がりの代償」