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Episode 1 · 夜勤明けの睡眠と光のコントロール

Episode 1:山岸詩織、看護師、29歳

#夜勤#睡眠#看護師#連載小説

第1話 夜が明けても眠れない

 自動ドアが開いた瞬間、朝が殴りかかってきた。

 六月の光。容赦がない。十六時間ぶりの外気を吸い込んだ皮膚が、湿度にべたつく。目を細めた。身体がまだ蛍光灯の下にいるつもりでいる。

 詩織は溜息をひとつ吐いて、駅に向かって歩き始めた。

 今夜の戦績。322号室の斎藤さん、点滴ルート自己抜去2回。末梢が細い上に認知が入ってきていて、夜間は特にいじる。シーネで固定したが、3時の巡回で右手が血まみれになっていた。本人はにこにこして「あら、赤いわねえ」と言っていた。

 301号室の田中さん。午前1時、「胸が苦しい」でナースコール。心電図に変化なし。呼吸数28、手のしびれ——過換気。呼吸法を一緒にやって、落ち着くまで40分。田中さんは「すみません」と繰り返した。「いいんですよ」と私は言った。嘘じゃなかった。

 4時台に後輩が早朝採血で2回失敗した。患者さんの顔がこわばったから「代わるね」と入って、一発で決めた。4年目にもなると、手だけは嘘をつけるようになる。

 ——特別なことは何もない。内科病棟の夜勤の「普通」は、こういう密度でできている。


 向こうからスーツの群れが歩いてくる。一日が始まる顔をした人たち。私の一日は、もう終わりかけている。

 駅前の横断歩道で信号を待った。ふと、路地の入り口に小さな看板が見えた。文字までは読まなかった。信号が青になって、そのまま通り過ぎた。

 電車に乗った。座れた。スマホを開くと、彼から連絡が来ていた。

 「今日夜ごはん食べない?」

 夜。彼の「夜」は19時のことだ。仕事を終えてから出かけようか、という意味の「夜」。

 私の「夜」は今この瞬間だ。朝の8時半だけど、これから部屋を暗くして眠りにつく。起きるのは昼過ぎ。夕方にようやく人間に戻って、彼の「夜」が始まる頃には、私は次の夜勤に向けて仮眠の算段をしている。

 「今日夜勤明けなんだ」と打ちかけて、指が止まった。何回目だろう、この説明。

 彼は悪い人じゃない。理解しようとしてくれている。でも「理解しようとしている」と「分かっている」のあいだには、思ったより深い溝がある。それを言葉にすると不満に聞こえそうで、飲み込む。飲み込んだものが、最近すこしずつ喉に溜まっている。

 「ありがとう、でも今日は寝るね」

 それだけ返して、スマホを伏せた。


 帰宅。シャワーの前に、洗面台の鏡を見た。

 見なければよかった。

 目の下の影が、もう「クマ」というより沈着に近い。頬の吹き出物が先週から治らないまま、隣にもう一つ増えている。生理も先月は5日遅れた。今月もまだ来ない。

 婦人科に行こうと思ったことは2回ある。2回とも、夜勤の翌日で、起きたら予約の電話をする気力が残っていなかった。

 「たぶん、ストレスと睡眠不足でしょ」

 鏡の中の自分に言った。鏡の中の自分は、ひどい顔で頷いた。


 遮光カーテンを引いた。端と壁のあいだから細い光が一本、漏れている。いつもそうだ。完全な暗闘にはならない。

 ベッドに倒れた。目を閉じた。

 ——斎藤さんの固定、日勤帯に申し送ったけど、あの貼り方で伝わっただろうか。田中さんの過換気、精神科コンサルトの話が出るかもしれない。後輩のフォロー、来週また夜勤が一緒だ——

 目を開けた。まだ20分しか経っていない。

 スマホに手が伸びた。「夜勤明け 眠れない」と検索した。「概日リズムを整えましょう」「朝食をしっかり摂りましょう」「カフェインは避けましょう」。知っている。全部知っている。看護師だから知識としてはある。でも今夜も3時にコーヒーを飲んだ。飲まなきゃ5時の巡回まで持たなかった。

 スマホを置いた。目を閉じた。今度こそ。


 3時間後。目が覚めた。

 天井。昼の光。カーテンの隙間から漏れた線が、枕元に届いている。

 身体はまだ重い。でも眠りに戻る気配はない。「もっと寝なきゃ」と思うほど、意識が浮いてきて沈まなくなる。

 起き上がって水を飲んだ。冷蔵庫を開けた。今は朝なのか昼なのか。胃がどの時間の食事を求めているのか分からなかった。

 ——何かが、ずれている。

 病気じゃない。たぶん。ただ、歯車が一つ二つ噛み合わなくなっている。睡眠、肌、生理、彼との時間。どれも致命的じゃない。どれも「まあ、こんなもんでしょ」で流せる範囲に、ぎりぎり収まっている。

 でも、「ぎりぎり」が定位置になっている。

 それは正常なんだろうか。

 分からなかった。分からないまま、天井を見ていた。


次回:「鏡の中の他人」

第2話 鏡の中の他人

 次の夜勤まで中1日。「休日」と呼ぶには短すぎる空白だ。

 昼過ぎに起きた。正確には、昼過ぎまで横になっていた。眠れたのは断続的に4時間くらいだと思う。スマホのアラームは止めてあった。止めていても関係なかった。身体が勝手に起きる。

 洗面台に立った。

 鏡の中に知らない人がいる——というのは大げさだけど、半年前の自分の写真と並べたら、たぶん同一人物に見えない。肌のキメが消えている。頬の吹き出物は赤みを持ったまま居座っていて、コンシーラーでは隠しきれない。唇の色が悪い。首のあたりに細かい湿疹が出ている。

 看護師だから、理屈は分かる。睡眠が乱れると成長ホルモンの分泌が落ちる。肌のターンオーバーが崩れる。自律神経がおかしくなれば皮脂のバランスも変わる。教科書に書いてあることだ。

 教科書通りに壊れていくのを、教科書の知識では止められない。その皮肉が、いちばん堪える。


 彼から電話が来たのは、15時だった。

 「昼休みに抜けてる。今日の夜、どう?」

 声が明るい。昼休みの明るさだ。仕事が順調で、天気がよくて、夜にはビールが飲みたい——そういう種類の明るさ。

 「うん、行こうか」

 断る理由がなかった。正確には、断る理由はいくつもあったけれど、それを説明する労力と、説明した後の気まずさを考えると、行くほうが楽だった。

 18時に待ち合わせ。渋谷の、彼が見つけたイタリアン。

 支度をしながら、鏡の前でファンデーションを重ねた。一度、二度。厚塗りになっていく。半年前は下地と薄いパウダーだけで出かけていた。あの頃の自分を思い出そうとして、うまく思い出せなかった。


 彼は笑顔で手を振った。「久しぶり」

 2週間ぶりだった。前回会ったのも私の夜勤明けの日で、映画を観に行って、私は開始20分で寝落ちした。彼は怒らなかった。怒らない代わりに、少しだけ黙った。その沈黙のほうが、怒られるよりきつかった。

 パスタを食べた。彼は会社の話をしてくれた。新しいプロジェクトのこと、上司が面白い人だということ、来月チームで合宿があること。私は相槌を打ちながら、ワインを一口飲んだ。

 「詩織は最近どう?」

 「うん、まあ、普通かな」

 普通。便利な言葉だと思った。

 「なんか顔色悪くない? ちゃんと寝てる?」

 彼の目が、私の目の下を見ていた。ファンデーションで隠したはずの影を、見抜いている。いや、隠しきれていなかったのかもしれない。

 「寝てるよ。夜勤明けだから、ちょっとね」

 「前も同じこと言ってた」

 そうだったかもしれない。

 「有給とか取れないの?」

 取れる。制度上は。でも人が足りない。夜勤の穴を埋めるのは別の誰かで、その誰かにも生活がある。私が休めば誰かの夜勤が増える。その構造を知っているから、「休めばいいじゃん」という言葉が軽く聞こえる。軽く聞こえてしまう自分が嫌だ。彼は悪くない。

 「まあ、そのうちね」

 彼は何か言いかけて、やめた。フォークでパスタを巻きながら、小さく息を吐いた。

 その吐息を、私は正確に聞き取った。観察は職業病だ。あれは「言っても伝わらない」と判断したときの息だ。患者さんの家族が、説明を聞いた後に見せる表情と似ている。

 デザートは断った。「ちょっと胃もたれしてて」

 嘘じゃなかった。最近、食後に胃が重い。食べる時間が不規則だからだと思う。思うけど、それも「たぶん」の一つだ。


 彼と別れて、駅に向かった。

 22時。ここから帰って、明日は日勤で7時起き。睡眠時間を逆算する。帰宅23時、寝る準備をして23時半、起床6時半——7時間。悪くない数字だ。数字だけは。問題はその7時間が本当に眠れるかどうかで、最近の打率は5割を切っている。

 ホームで電車を待ちながら、今日の自分を振り返った。

 彼の話にちゃんと笑えていただろうか。相槌は自然だっただろうか。「普通」と答えたとき、彼は信じただろうか。信じていないから、顔色の話をしたんだろう。

 ——いつから、人と会うのに予習と復習が必要になったんだろう。

 電車に乗った。窓に映った自分の顔がぼんやり見えた。蛍光灯の下の、疲れた顔。病棟の照明の下で見慣れた、あの顔だ。鏡の中にいる知らない人。


 最寄り駅で降りた。

 改札を出て、いつもの道を歩く。アパートまで7分。その途中、信号を渡って——

 足が止まった。

 路地の入り口。この前、夜勤明けの朝に見た看板。あのとき読まなかった文字が、今夜は街灯に照らされて読めた。

 「Lumen」

 小さな看板だった。木の板に、白い文字。それだけ。派手さはない。ただ、路地の奥に暖色の光がぼんやりと漏れているのが見えた。

 24時間営業、と小さく書いてある。

 こんな場所にカフェがあったのか。何年もこの道を通っていたのに、気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれない。目に入っていても、見ていなかっただけで。

 今日は、見えた。

 入ろうとは思わなかった。でも、看板の前に5秒くらい立っていた。路地の奥から、かすかにコーヒーの匂いがした。それか、そう思い込んだだけかもしれない。

 アパートに帰った。シャワーを浴びて、ベッドに入った。

 目を閉じた。今日も眠れるか分からない。分からないけれど、路地の奥の暖色の光が、まぶたの裏にぼんやり残っていた。


次回:「最初の一杯」

第3話 最初の一杯

 夜勤明け。朝の8時半。

 自動ドアを出た瞬間の光は、いつも通り暴力的だった。でも今日は少しだけ違った。

 足が、いつもと違う方向に向いた。

 駅前の信号を渡って、右に曲がる。いつもなら真っ直ぐ駅に向かう。でも今日は、路地の入り口で足が止まった。

 「Lumen」。木の看板。白い文字。

 3日前の夜、ここで立ち止まった。あのときは入らなかった。今日も入るつもりはなかった。ただ、16時間の夜勤のあと、真っ直ぐ帰って眠れないベッドに倒れるのが、今日はどうしても嫌だった。

 路地を歩いた。10メートルほど。突き当たりに木の扉があって、小さなガラス窓から暖色の光が漏れていた。

 開けた。


 中は、思ったより狭かった。

 カウンター6席に、二人がけのテーブルが2つ。それだけ。照明は暖色のペンダントライトで、天井が低い分、光が近い。壁は古いレンガ調で、棚にはコーヒー豆の缶と、ハーブティーのガラス瓶が並んでいた。BGMはピアノのインスト。音量が絶妙に低い。聞こうとすれば聞こえるけれど、邪魔にはならない。

 カウンターの中に、一人の男性が立っていた。

 白髪混じりの短髪。痩せ型。白シャツにエプロン。清潔だけど気取ってはいない。年齢は50手前か、少し過ぎたあたりか。顔立ちは穏やかだが、目だけは静かに鋭い。

 「いらっしゃい」

 声は低く、平温だった。歓迎でも警戒でもない。ただ「来たね」という事実だけを受け取ったような声。

 「おひとりですか」

 「はい」

 カウンターの端に座った。朝の8時半に24時間営業のカフェに一人で来る客に、何も聞かない。それがありがたかった。


 メニューを開いた。コーヒー、紅茶、ハーブティー。ここまでは普通だ。でもその下に、見慣れない名前が並んでいた。

 「眠りのブレンド」「覚醒のドリップ」「整えるスープ」「胃を休める粥」

 何だこれ、と思った。カフェのメニューというより、処方箋みたいだ。

 「決まりましたか」

 マスターが聞いた。

 決まらなかった。コーヒーを頼めばいい。それが一番普通だ。でも今、普通のコーヒーが飲みたいわけじゃない気がした。かといって「眠りのブレンド」を頼む自分を認めるのも、少し抵抗があった。

 「……おすすめってありますか」

 逃げた。自分でも分かっていた。

 マスターは私の顔を一瞬見た。それから目元、首筋、手元。視線が動いたのは1秒もなかったと思う。でも、何かを読み取ったように見えた。

 「夜勤明けですか」

 「——分かりますか」

 「靴の履き方で」

 意味が分からなかった。自分の足元を見た。スニーカーの踵を踏んでいた。出がけに直す余裕がなかった。いや、違う。直す気力がなかった。

 「ひとつ、作りましょうか」

 頷いた。メニューの名前は言われなかった。


 マスターが動き始めた。

 カウンターの中での動きは無駄がなかった。ガラスの瓶からハーブを二種類取り出して、小さな秤で量った。ポットに湯を注ぎ、蓋をして、砂時計を返した。3分。

 その3分間、私は何もしなかった。スマホも出さなかった。ただ、砂が落ちるのを見ていた。病棟では3分あれば点滴の残量確認と体位変換ができる。ここでは、砂が落ちるのを見るだけでいい。

 その「だけでいい」が、想像より深く効いた。

 砂時計が止まった。マスターがカップに注いだ。薄い琥珀色の液体。湯気が細く立っている。

 「カモミールとパッションフラワーです。甘みが欲しかったら蜂蜜があります」

 受け取った。両手で包んだ。カップが温かかった。

 一口飲んだ。

 ——なんだこれ。

 美味しい、とか、そういう感想じゃなかった。うまく言えない。味は優しい。草の匂いがほんのりする。でもそれより、飲んだ瞬間に身体の奥のどこかが「ああ」と言った気がした。張っていた何かが、一段だけ緩んだ。

 マスターはカウンターの中で静かに片付けをしていた。話しかけてこなかった。「いかがですか」とも聞かなかった。

 それが心地よかった。


 カップを半分ほど飲んだところで、私は口を開いていた。

 「最近、眠れなくて」

 言うつもりはなかった。言った後で驚いた。職場では言わない。彼にも言わない。「眠れない」と口にすると、それが事実として確定してしまう気がして、ずっと避けていた。

 マスターは顔を上げた。

 「眠れない、というのは」

 間があった。

 「寝つけないのか、途中で起きるのか」

 質問の仕方が、医者みたいだった。問診の入り方だ。

 「……両方です。寝つくのに時間がかかって、寝ても3時間で起きます」

 「夜勤のあと」

 「はい」

 マスターは小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。

 「もう一杯飲んで帰ったら、少し眠れるかもしれません」

 断言しなかった。「眠れます」とは言わなかった。「かもしれません」。その言い方が、なぜか信頼できた。


 2杯目を飲み干して、店を出た。路地を抜けると、朝の光がまた目を刺した。でも、さっきより少しだけ柔らかく感じた。気のせいかもしれない。

 帰宅して、ベッドに入った。カーテンを閉めた。いつもの隙間から光の線が一本。

 目を閉じた。

 斎藤さんのルートのことを考えかけて、やめた。やめられたのは初めてだった。カモミールの残り香が鼻の奥にある。身体の奥のあの「ああ」という感覚が、まだかすかに残っている。

 眠れるかどうかは分からない。

 でも、今日は少しだけ、「眠れなくてもいい」と思えた。


次回:「落としたシリンジ」

第4話 落としたシリンジ

 それは、夜勤の12時間目に起きた。

 午前4時。採血の準備をしていた。305号室の高橋さん、早朝採血オーダー。生化学とCBC。翼状針、ホルダー、スピッツ2本。手順は4年間で何百回と繰り返してきた。目を閉じてもできる。

 目を閉じてもできるはずだった。

 トレイを持って廊下を歩いているとき、指がすべった。翼状針のパッケージがトレイから落ちた。滅菌パッケージだから中身は無事だ。拾えばいい。それだけのことだ。

 でも、落とした。

 4年間で初めてではない。誰だって落とす。でも今日は、落ちたパッケージを見下ろしたまま、1秒か2秒、動けなかった。拾うという動作の指令が、頭から手に届くまでに遅延があった。

 それが怖かった。


 採血自体は問題なく終わった。高橋さんの血管は太くて真っ直ぐで、駆血帯を巻けば浮き出る。一発で入った。ラベルを貼って、提出して、記録をつけた。手順通り。

 でも、廊下に戻ったとき、膝が少しだけ笑っていた。

 疲労だと思った。12時間の立ち仕事の蓄積。それだけだ。そう言い聞かせた。ナースステーションに戻って、椅子に座って、電子カルテの画面を見た。文字が一瞬にじんだ。目をこすった。焦点が戻った。

 隣に座っていた先輩の川嶋さんが、こっちを見た。

 「山岸さん、顔色悪いよ」

 「大丈夫です。ちょっと目が乾いて」

 「コンタクト?」

 「はい」

 嘘だった。コンタクトのせいじゃない。でも「コンタクト」と言えば、それ以上は聞かれない。看護師は察しがいい。察しがいいから、相手が嘘をついているのも分かる。川嶋さんは「ふうん」とだけ言って、視線を戻した。

 信じたわけじゃないだろう。ただ、踏み込まなかった。夜勤中に同僚のメンタルに踏み込む余裕は、誰にもない。それも、この仕事の「普通」だ。


 明け方の6時、仮眠室で15分だけ横になった。

 横になっただけだ。眠れなかった。天井のシミを数えた。3つ。前も3つだった。仮眠室は暗いけれど、蛍光灯のスイッチの隙間から緑の小さな光が見えている。あの光が気になって眠れないのか、眠れないからあの光が気になるのか、もう分からなかった。

 15分後、アラームが鳴る前に起き上がった。顔を洗って、ナースステーションに戻った。

 「おかえり、寝れた?」

 川嶋さんが聞いた。

 「はい、少し」

 また嘘をついた。今日何回目だろう。


 8時半。申し送りを終えて、病院を出た。

 朝の光。六月の朝の光。またこれか、と思った。この光が嫌いなわけじゃない。ただ、16時間分の疲労を背負った身体に、この明るさは情報量が多すぎる。

 駅に向かって歩いた。信号を待った。

 目の端に路地が映った。

 Lumen。

 3日前、あそこでハーブティーを飲んだ。カモミールとパッションフラワー。飲んだあと、少しだけ眠れた。4時間。いつもの3時間より1時間多かった。たったの1時間。でも、あの1時間で目覚めたときの身体の軽さは、ここしばらく忘れていた感覚だった。

 今日も寄ろうか。

 足が路地のほうに向きかけて、止まった。

 何を期待しているんだろう、と思った。ハーブティー1杯で何が変わるわけでもない。あの日眠れたのは、たまたまかもしれない。疲労の蓄積がちょうどピークで、限界を超えて眠りに落ちただけかもしれない。マスターに話を聞いてもらったからって、何が解決したわけでもない。「眠れるかもしれません」。あれはただの社交辞令かもしれない。

 看護師は知っている。プラセボ効果というものがあることを。期待が身体に作用することを。つまり、あの1時間の睡眠は、カモミールじゃなくて「カモミールを飲んだ私の期待」が生んだものかもしれない。

 だとしたら、それは本物の改善じゃない。

 ——でも。

 でも、4年間の知識で止められなかったものが、あの一杯の夜だけ1時間伸びたのは事実だ。プラセボだろうが何だろうが、4時間眠れた朝の身体は楽だった。それは理屈じゃなくて、実感だ。

 路地の入り口に立っていた。看板が見えた。木の板に白い文字。

 入ろうか。やめようか。

 信号が青になった。

 私は、真っ直ぐ駅に向かった。今日は帰ろう。寝られるかどうか、まずは自分で試してみる。

 電車に乗った。座れた。目を閉じた。

 まぶたの裏に、路地の奥の暖色の光がちらついた。落としたシリンジのパッケージが、廊下の床で白く光っていたのと、同じくらいの鮮明さで。


次回:「強がりの代償」

第5話 強がりの代償

 日勤が3日続いた。

 夜勤よりマシだと思っていた。世間と同じ時間に起きて、同じ時間に働いて、同じ時間に帰る。普通の生活。でもその「普通」が、夜勤で狂った身体にはかえってきつかった。

 朝6時に起きられない。

 正確には、アラームで起きる。起きるけれど、身体が「朝」を認識するまでに30分かかる。シャワーを浴びて、やっと目が開く。朝食を食べる気力はない。ブラックコーヒーを一杯流し込んで家を出る。電車の中で、まだ頭の芯が眠っている感覚がある。

 日勤帯の病棟は、夜勤とは別の忙しさがある。入退院、検査出し、ドクターの回診の付き添い、家族への説明の同席、カンファレンス。人が多くて、音が多くて、判断が多い。夜勤は「少人数で耐える」忙しさだけど、日勤は「大人数で回す」忙しさだ。

 3日目の午後、14時過ぎ。

 ナースステーションで記録をつけていたとき、視界の端が暗くなった。


 暗くなった、というのは正確じゃない。暗くなったというより、視界の周辺が一瞬溶けた。中心は見えている。モニターの文字は読める。でもその周りが、水に絵の具を落としたみたいにじわっとにじんだ。

 立ち上がった。立ち上がった瞬間、血の気が引いた。

 起立性低血圧。たぶん。脱水もあるかもしれない。今日、水を飲んだのはいつだったか。朝のコーヒー以降、ペットボトルに口をつけた記憶がない。昼食は——食べたか? 食べたはずだ。おにぎり1個。それだけだったかもしれない。

 カウンターの端を掴んだ。指先が白い。

 3秒。視界が戻った。大丈夫。大丈夫だ。

 座り直した。誰にも見られていないことを確認した。見られていなかった。みんな自分の仕事に忙しい。この病棟では、倒れない限り「異常」にはならない。倒れかけたくらいでは、誰の目にも映らない。

 安堵した。同時に、安堵している自分が怖かった。


 15時。検温のラウンドに出た。

 310号室の森さん。78歳、肺炎で入院中、抗生剤の投与が始まって4日目。熱は下がってきている。SpO2 96%。バイタルを記録しながら、森さんが話しかけてきた。

 「看護師さん、あんた若いのに偉いねえ。夜も昼も関係なく働いて」

 「そんなことないですよ」

 「無理しちゃだめだよ。私みたいになるから」

 笑って受け流した。患者さんによく言われる台詞だ。悪気はない。優しさだと分かっている。でも今日は、その言葉が胸の奥のどこかに引っかかった。

 私みたいになるから。

 森さんは肺炎だ。睡眠不足とは関係ない。でも、「無理をした結果、身体が壊れる」という構造は同じだ。看護師は患者さんに「無理しないでくださいね」と毎日言う。毎日言いながら、自分はおにぎり1個で14時間働いている。

 廊下を歩きながら、その矛盾が急に重たくなった。


 16時半。日勤終了の30分前。

 ナースステーションで最後の記録を打っていたとき、後ろから声をかけられた。

 「山岸さん」

 振り返ると、川嶋さんが立っていた。夜勤のときにも一緒だった先輩。今日は日勤のリーダーをやっている。

 「ちょっといい?」

 廊下の隅に連れ出された。川嶋さんは腕を組んで、私の顔を見た。

 「大丈夫?」

 また、この質問。

 「大丈夫です」

 反射で答えた。いつもの返答。いつもの笑顔。いつもの——

 「嘘でしょ」

 川嶋さんの声は、穏やかだった。責めてはいなかった。ただ、事実を言った。

 「今日、14時にふらついてたの、見てたよ」

 見られていた。

 「別にね、責めたいわけじゃないの。ただ、山岸さんがここ最近ずっと顔色悪いのは、私だけじゃなくて何人か気づいてる」

 何人か。

 「夜勤の入りも、前より反応が遅い。自分で気づいてるでしょ」

 気づいていた。気づいていて、気づかないふりをしていた。

 「大丈夫って言うのは自由だけどさ。大丈夫じゃなくなってから言われるほうが、周りは困るんだよ」

 川嶋さんは笑った。軽い笑い方だった。深刻にさせないための笑い。先輩はそういうのが上手い。

 「無理しないで、とは言わないよ。そんなの無理だから。でも、限界のラインくらいは自分で引きなね」

 それだけ言って、川嶋さんはナースステーションに戻っていった。


 更衣室でロッカーを開けた。白衣を掛けた。私服に着替えた。

 鏡は見なかった。

 靴を履いた。今日はちゃんと踵を踏まずに履いた。それだけで少し息が切れた。

 大丈夫じゃない。

 知っていた。知っていて、「大丈夫」と言い続けていた。言い続けることで成立する均衡があると思っていた。言葉で蓋をしておけば、中身が溢れることはないと。

 でも、蓋は少しずつずれていた。川嶋さんには見えていた。何人かに見えていた。私だけが、見ないようにしていた。

 病院を出た。夕方の光は朝よりやさしい。でも今日は、やさしさが逆に堪えた。

 限界のラインくらいは自分で引きなね。

 ライン。私の限界のラインは、今どこにあるんだろう。

 分からなかった。分からないということが、たぶん答えなのだと、どこかで分かっていた。


次回:「カウンターの隣の男」/7月17日(金)6:30更新

第6話 カウンターの隣の男

 川嶋さんに見抜かれた翌日、夜勤だった。

 16時に入って、翌朝8時半に上がる。16時間。いつも通り。ただ、いつも通りのはずの16時間が、いつもより長く感じた。身体が重いのか、気持ちが重いのか、もうその区別がつかない。

 夜勤自体は静かだった。急変もなく、ナースコールも少なく、仮眠の15分では珍しく意識が落ちた。落ちた、という表現がぴったりだ。眠りに入ったのではなく、意識がぷつんと切れた。起きたとき、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。

 明けの8時半。自動ドアを出た。光。

 駅に向かって歩いた。信号を待った。路地が見えた。

 今日は、迷わなかった。


 路地を歩いて、木の扉を開けた。

 「いらっしゃい」

 マスターの声。前と同じ、平温の声。2回目だからといって親しげにもならない。その距離感が心地いい。

 カウンターに座った。前と同じ、端の席。

 「同じものを」

 自分で言って、少し驚いた。メニューを開かなかった。迷わなかった。あのカモミールとパッションフラワーのブレンドを、身体が覚えていた。

 マスターは頷いて、準備を始めた。ガラス瓶。秤。ポット。砂時計。同じ手順。同じ静けさ。

 砂が落ちるのを見ていた。3分間。前回と同じように、何もしなかった。スマホも出さなかった。病棟ではナースコールが鳴れば走る。ここでは砂が落ちるのを見る。この3分間だけ、私は看護師じゃない。何者でもない誰かだ。

 カップが出てきた。両手で包んだ。一口飲んだ。身体の奥で何かが緩む。前回と同じ「ああ」が来た。プラセボかもしれない。でも今日は、それでもいいと思えた。


 2杯目を頼んだとき、扉が開いた。

 大きな男が入ってきた。身長は180センチ以上。肩幅が広い。作業着のような厚手のシャツに、くたびれたジーンズ。顔は日焼けしていて、目の下に深い影がある。年齢は40代前半くらいか。

 「マスター、コーヒー。濃いやつ」

 カウンターの、私の隣に座った。一つ席を空けずに、隣。でも不快ではなかった。この店のカウンターは6席しかないから、自然とそうなる。

 マスターはコーヒーを淹れ始めた。ドリップ。ゆっくり、円を描くように湯を注ぐ。

 男は両手を膝に置いて、目を閉じていた。疲れている。それは見なくても分かった。空気で分かった。私と同じ種類の疲れだ。蓄積された、出口のない疲れ。

 コーヒーが出てきた。男は目を開けて、一口飲んで、深く息を吐いた。

 「——生き返る」

 独り言のようだった。でも、聞こえた。


 5分くらい、沈黙があった。

 私はハーブティーを飲み、男はコーヒーを飲んでいた。マスターは静かにカウンターを拭いていた。BGMのピアノだけが鳴っている。3人がそれぞれの疲れを持ち寄って、何も言わずに座っている。その空間が、不思議と成立していた。

 男が先に口を開いた。

 「姉ちゃん、夜勤明け?」

 「……はい」

 「だよな。俺もだよ」

 男は笑った。疲れた笑い方だった。

 「何の仕事ですか」

 「長距離。トラック」

 長距離トラックの運転手。夜通し走って、朝に着く。

 「昨日は埼玉から大阪、折り返して今朝戻ってきた。700キロ。途中で2時間だけパーキングで仮眠した」

 2時間。私の仮眠室の15分よりは長い。でも、700キロを運転しながらの2時間は、ベッドの15分とは意味が違う。

 「眠くならないですか。運転中」

 「なるよ。なるに決まってる」

 男はコーヒーをもう一口飲んだ。

 「でもな、眠いで止めたら荷物が届かない。届かなきゃ、スーパーの棚が空になる。コンビニの弁当がなくなる。誰も気づかないけど、俺が走んなきゃ朝の棚は埋まらないんだよ」

 それから、少し黙って、付け足した。

 「俺たちみたいなのは、世間からは見えないからな」


 俺たち。

 男は「俺たち」と言った。私を含めて。

 看護師とトラック運転手。仕事の内容はまったく違う。でも、世間が眠っている時間に働いて、朝日の中を帰って、眠れないベッドに倒れて、世間が動き出す頃に意識を失うように眠る。その構造は同じだ。

 スーパーの棚が埋まっているのは、夜中に誰かが走ったからだ。病棟で朝を迎えられる患者さんがいるのは、夜中に誰かが巡回したからだ。でもそれは、朝起きてスーパーに行く人には見えない。朝の回診で「異常なし」と言われる患者さんにも、見えない。

 見えない仕事。見えない疲れ。見えないまま、すり減っていく身体。

 「……そうですね」

 私は小さく言った。

 男は立ち上がった。財布からちょうどの小銭を出して、カウンターに置いた。

 「マスター、ごちそうさん。また来るわ」

 「気をつけて」

 マスターが言った。短い言葉だった。でも「気をつけて」の響きが、社交辞令ではなかった。700キロを走る人に対する、本物の「気をつけて」だった。

 男は私のほうを向いた。

 「姉ちゃんも、無理すんなよ」

 手を軽く上げて、出ていった。


 一人になった。

 マスターが空いたカップを下げながら、言った。

 「彼は月に3回くらい来ます」

 「ずっと?」

 「2年ほど」

 2年。この店に2年通っている。700キロを走ったあとに、この小さなカフェでコーヒーを一杯飲んで帰る。それを2年。

 「あの人は、ここに来て何か変わりましたか」

 聞いてから、変な質問だと思った。マスターはカフェの店主であって、カウンセラーじゃない。

 マスターは少し考えてから答えた。

 「変わったかどうかは、分かりません。ただ、来なくなったら心配します」

 それだけだった。

 会計を済ませて店を出た。路地を抜けて、朝の光の中に出た。

 俺たちみたいなのは、世間からは見えないからな。

 あの言葉が、頭の中で繰り返し再生された。

 私は、見えている側だと思っていた。患者さんを見て、後輩を見て、彼氏の沈黙を見て。でも、私自身は誰に見えているんだろう。川嶋さんには見えていた。マスターにも、たぶん見えている。あのトラック運転手にも、一目で分かったらしい。

 見えていないのは、私だけなのかもしれない。

 自分のことが、いちばん見えていない。


次回:「朝の光」/7月21日(火)6:30更新

第7話 朝の光

 彼と会ったのは、日勤が終わった金曜日の夜だった。

 「ちゃんと話したい」と彼が言った。「ちゃんと」という言葉の温度で、何の話か大体わかった。

 新宿の、チェーンの居酒屋。彼が選んだ。いつもなら「もう少しいい店にしない?」と言うところだけど、今日はそういう話じゃないんだろう。場所は何でもいい。

 向かい合って座った。彼はビールを頼んだ。私はウーロン茶にした。明日は夜勤だ。アルコールを入れると睡眠がさらに浅くなる。それは知識として知っている。知識として知っていることだけが増えていって、生活は何も変わらない。


 彼は最初、仕事の話をした。いつもの話。プロジェクトが佳境で、来月リリースがある。チームの雰囲気はいい。上司に評価された。

 私は相槌を打った。打ちながら、彼の話が前回とどう違うのかを考えていた。違わなかった。彼の世界は安定していて、前に進んでいる。毎回少しずつアップデートされていく。私の世界は、同じ場所で回り続けている。夜勤、日勤、夜勤。眠れない、起きる、眠れない。

 彼がビールを半分ほど飲んだところで、話が変わった。

 「詩織さ」

 さん付けじゃなくて、呼び捨て。真剣な話のときの癖だ。

 「最近、心配してる」

 「うん」

 「前より痩せたし、肌も荒れてるし、LINEの返事もどんどん遅くなってる」

 全部事実だった。反論できない。

 「俺がどうこう言える立場じゃないのは分かってる。でも、このまま続けて大丈夫なのかなって」

 「仕事のこと?」

 「仕事というか——全部」

 全部。私と彼の関係も含めて、ということだ。


 「俺、土日休みでしょ。詩織は土日も関係ない。俺が会いたいときに詩織は寝てて、詩織が起きてるときに俺は仕事してる」

 知っている。

 「合わせようとしてくれてるのは分かる。でも、合わせるたびに詩織がしんどそうになってるのも分かるんだよ」

 彼の声は責めていなかった。責めてくれたほうが楽だった。怒ってくれたら、怒り返せる。正論を言われると、受け止めるしかない。

 「俺に何ができるのか分からない。『大変だね』って言うたびに、詩織の顔がちょっと曇るのも分かってる。でも他に何て言えばいいのか、本当に分からないんだよ」

 彼の目が少し赤くなっていた。

 ああ、この人は本気で考えてくれている。

 分かった。分かったから、余計に苦しかった。


 「私も分からない」

 口から出た言葉は、思ったより小さかった。

 「何が辛いのかも、ちゃんと言葉にできない。仕事が嫌なわけじゃない。あなたのことが嫌なわけでもない。ただ——」

 ただ、何だ。

 「ただ、全部がちょっとずつずれてて、そのずれを直す方法が分からない」

 彼は黙っていた。

 「眠れないの。夜勤明け、帰って横になっても3時間で起きる。肌も荒れてるし、生理も遅れてる。全部、睡眠が関係してるんだと思う。でも、夜勤やめるわけにいかないし、やめたいわけでもない」

 初めて全部言った。彼に。誰かに。声に出すと、思ったより長い不調のリストだった。

 彼は聞いていた。聞いてから、少し間を置いて言った。

 「病院、行ったほうがいいんじゃないかな」

 「……看護師が病院に行くって、なんか変な話だよね」

 笑おうとした。笑えなかった。

 「変じゃないよ。普通のことでしょ」

 普通。また「普通」だ。彼の世界では、体調が悪ければ病院に行くのが普通だ。私の世界では、体調が悪い人を看る側が私で、私が看られる側に回る想像がうまくできない。


 店を出た。新宿の夜。金曜日の喧騒。人が多い。光が多い。音が多い。

 並んで歩いた。どちらも何も言わなかった。

 駅の改札の前で立ち止まった。彼はJR、私は地下鉄。ここでいつも分かれる。

 「詩織」

 「うん」

 「俺、待ってるから。でも、待つのにも限界はある。それは正直に言っておく」

 ずるい言い方だと思った。でも、誠実な言い方だとも思った。嘘がない。彼はいつも嘘がない。だから一緒にいたいと思った。だから一緒にいるのが苦しくなった。

 「うん。ありがとう」

 ありがとう。何に対しての「ありがとう」なのか、自分でも分からなかった。

 改札を抜けて、ホームに降りた。電車を待った。金曜の夜だから、酔った人たちが楽しそうに騒いでいた。


 電車に乗った。窓に自分の顔が映った。

 蛍光灯の下の、疲れた顔。頬の赤み。目の下の影。唇の色が悪い。いつもの顔だ。いつからこれが「いつもの顔」になったんだろう。

 私、ちゃんと生きてるのかな。

 ふと、そう思った。

 死にたいわけじゃない。全然そうじゃない。ただ、生きている実感が薄い。毎日は過ぎていく。夜勤をして、日勤をして、眠れなくて、起きて、食べて、また病院に行く。回っている。確かに回っている。でも、回っているだけだ。

 あのトラック運転手が言っていた。「俺たちみたいなのは、世間からは見えないからな」

 見えない。世間からも、彼からも、自分からも。回り続ける歯車は、回っているあいだは誰にも見えない。止まって初めて気づかれる。

 止まりたいわけじゃない。でも、このまま回り続けていたら、いつか勝手に止まるんじゃないか。

 電車が最寄り駅に着いた。降りた。改札を出た。

 夜の道を歩いた。アパートまで7分。いつもの道。

 路地の入り口を通り過ぎるとき、足は止めなかった。でも目だけが、暖色の光を追った。Lumenの扉のガラス窓から漏れる、あの光。

 明日は夜勤だ。明日の明け方、またあの自動ドアを出て、朝の光を浴びる。

 その光が、最近どんどん眩しくなっている。


次回:「マスターの夜」/7月24日(金)6:30更新

第8話 マスターの夜

 夜勤明け。朝の8時半。

 自動ドアを出た。光。もう慣れたと思っていたのに、今日はまた一段眩しかった。昨夜は一度も仮眠が取れなかった。319号室の急変対応。結局は持ち直したけれど、3時から6時まで付きっきりだった。

 駅に向かって歩いた。信号を待った。路地が見えた。

 今日は、足が勝手に曲がった。


 扉を開けた。3回目。

 「いらっしゃい」

 マスターの声。同じ温度。何回来ても変わらない。それが、今日は少しだけ泣きそうになるくらいありがたかった。

 カウンターに座った。端の席。私の席になりつつある。

 「同じものを」

 マスターが頷いて、準備を始めた。ガラス瓶。秤。ポット。砂時計。

 砂が落ちるのを見た。3分間。今日は、砂が落ちる速度が遅く感じた。疲れているときは時間が伸びる。病棟で学んだことだ。

 カップが出てきた。一口飲んだ。「ああ」が来た。3回目でも来る。もうプラセボかどうかはどうでもよかった。


 店内には他に客がいなかった。朝の9時前。世間が動き始める時間。ここだけが止まっている。

 2杯目を飲みながら、私は口を開いていた。

 「マスターは、なんでこの店を始めたんですか」

 聞こうと思って聞いたわけじゃなかった。ただ、誰かに何かを聞きたかった。自分のことじゃなくて、別の誰かの話を。

 マスターは手を止めなかった。カウンターを拭きながら、少し間を置いて答えた。

 「前は、別の仕事をしていました」

 「何を」

 「医者です。救急の」

 手が止まった。私の手が。カップを持ったまま。

 「救急——」

 「20年やりました」

 マスターが救急医。20年。あの穏やかな手つき、観察するような目、問診のような質問の仕方。全部つながった。

 「辞めたんですか」

 「辞めました」

 マスターはカウンターを拭く手を止めて、私のほうを見た。目が少しだけ遠くなった。過去を見ている目だ。患者さんの家族が、昔の話をするときにする目。

 「40代の半ばで、ある朝、病院の駐車場に車を停めたまま動けなくなりました。エンジンを切って、ハンドルを握ったまま、1時間」

 私は黙って聞いていた。

 「身体は元気でした。熱もない、痛みもない。ただ、ドアを開けて病院に入るという動作ができなかった。20年間毎日やっていたことが、その朝だけできなかった」

 マスターの声は静かだった。感情を抑えているのではなく、すでに通り過ぎた場所の話をしているような声だった。

 「燃え尽きた、というのが正確なのかは今でも分かりません。ただ、あの朝の自分に言えることがあるとすれば——」

 間があった。

 「もっと早く気づけたはずだった」


 「気づく、というのは」

 「壊れる前の信号を、自分で読めたはずだった、ということです」

 マスターは棚からガラスの瓶を一つ取り出した。中にドライハーブが入っている。

 「睡眠が崩れたのが、最初でした。当直明けに眠れなくなった。3時間で目が覚める。肌が荒れる。食事の時間が分からなくなる」

 全部、私と同じだった。

 「救急医ですから、知識はありました。概日リズムの話も、メラトニンの話も、全部知っていた。でも、知っていることと気づくことは違う」

 知っていることと気づくことは違う。

 「何に気づけなかったんですか」

 「光です」

 マスターは窓のほうを見た。Lumenの小さな窓から、朝の光が細く入っている。

 「当直明けの朝、駐車場まで歩く間に朝日を浴びていました。毎朝。たった5分の距離です。でもその5分で、身体は『朝だ』と認識する。朝だと認識した身体は、メラトニンを止める。メラトニンが止まれば、眠れない」

 私は自分の通勤を思い出していた。病院から駅まで7分。朝の光の中を歩く。電車に乗る。最寄り駅から自宅まで7分。また光の中を歩く。合わせて15分以上、朝日を浴びている。

 「知識としては持っていました。でも、自分の生活にそれを当てはめるということをしなかった。患者さんには『光に気をつけて』と言えるのに、自分の光には気づかなかった」

 その言い方が、痛いくらいよく分かった。


 マスターはハーブティーを私のカップに注ぎ足した。頼んでいないのに。

 「辞めてから半年、ほとんど何もしませんでした。眠って、食べて、散歩して。それだけの日々を過ごして、ようやく身体の時計が戻り始めた」

 「それで、カフェを?」

 「ある夜、近所のファミレスで明け方にコーヒーを飲んでいたら、隣に座った若い看護師が、テーブルに突っ伏して寝ていました」

 私は少し身体が硬くなった。

 「起こすわけにもいかないから、そのまま座っていました。30分くらいで目を覚まして、寝ぼけた顔で会計して出ていった。その後ろ姿を見て思いました。この人に、あと一杯、ちゃんとしたものを出せたら」

 マスターは笑った。この人が笑うのを、初めて見た。

 「大げさな話です。でも、夜勤明けの自分を救う場所が、自分にはなかった。だから作った。それだけです」


 私はカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。

 光を変えると、世界が変わる。

 マスターはそんな言い方はしなかった。でも、話の構造はそういうことだった。朝の光を浴びているから眠れない。光を遮れば、眠れるかもしれない。知識としてはあった。教科書にも書いてある。でもそれを「自分の問題」として捉えたことがなかった。

 私は看護師だから、知識がある。知識があるから、自分は大丈夫だと思っていた。でも本当は、知識があるから気づけなかった。知っているつもりになって、自分の身体のサインを読み飛ばしていた。

 「マスター」

 「はい」

 「私、たぶん——光が、原因かもしれない」

 初めて言葉にした。自分の問題を。自分の声で。

 マスターは頷いた。何も足さなかった。何も引かなかった。

 それだけで、十分だった。


次回:「サングラスの朝」/7月28日(火)6:30更新

第9話 サングラスの朝

 夜勤明け。朝の8時半。

 自動ドアの前で、私は鞄からサングラスを取り出した。

 コンビニで買った。昨日の夜勤に入る前、病院の向かいのセブンイレブンで。1,500円。安物だ。でも、レンズの色は濃い。それだけが条件だった。

 かけた。

 世界が暗くなった。


 マスターが言っていたこと。当直明けの朝、駐車場まで歩く5分で朝日を浴びていた。その5分が、身体に「朝だ」と教えてしまう。朝だと認識した身体はメラトニンを止める。メラトニンが止まれば、眠れない。

 私の場合。病院から駅まで7分。電車で20分。駅から自宅まで7分。帰宅するまでに30分以上、朝の光の中にいる。光を浴びながら帰って、遮光カーテンを閉めて寝ようとしていた。カーテンを閉める前に、もう手遅れだったのだ。

 それを理解したとき、腹が立った。

 自分に。

 看護師4年目。概日リズムもメラトニンも知っていた。教科書で読んで、国試の問題で解いて、患者さんに説明したことすらある。なのに、自分の帰り道に朝日が降り注いでいることには、一度も注意を払わなかった。知識が目を曇らせていた。分かっているつもりが、一番たちが悪い。

 だから、サングラス。

 遮光。帰り道の光を、まず目に入れない。それが最初の一手だとマスターは言わなかった。言わなかったけれど、あの人の話を聞いた夜、自分で調べた。スマホで。「夜勤明け 光 メラトニン 対策」。出てきた答えは単純だった。サングラス。帰路の遮光。それだけで、入眠までの時間が変わるという研究があった。

 1,500円で買える対策を、私は4年間知らなかった。知っていたのに、知らなかった。


 サングラスをかけて歩く朝の街は、別の場所みたいだった。

 光が柔らかい。正確には、光の量は同じだ。でもレンズ越しの世界は、朝特有の暴力性が抜けている。いつもなら目を細めて、顔をしかめて、早足で駅に向かう。今日は普通に歩けた。

 信号待ちで、路地の入り口が見えた。Lumenの看板。今日は寄らなかった。寄る必要がなかった。マスターにはもらうものをもらった。あとは自分で試す番だ。

 電車に乗った。サングラスのまま。車内で浮いているかもしれない。でも、気にしなかった。朝の電車にはいろんな人がいる。スーツの人、作業着の人、制服の学生。その中に、サングラスの看護師が一人いたところで、誰も気にしない。

 窓の外を見た。サングラス越しの景色は暗くて穏やかで、目が楽だった。いつもなら窓から差し込む朝日が顔に当たって、まぶたの裏まで明るかった。今日は、目を閉じなくても暗さが保たれている。


 帰宅した。

 遮光カーテンを閉めた。いつもの隙間。今日はそこに、昨日買ったもう一つのものを使った。マスキングテープ。カーテンの端と壁の隙間を、テープで塞いだ。完全ではない。でも、光の線が消えた。

 部屋が暗くなった。本当に暗くなった。

 時計を見た。9時15分。

 シャワーは浴びなかった。今日は順序を変えた。まず寝る。起きてからシャワーを浴びる。帰宅してすぐシャワーを浴びると、交感神経が上がるらしい。それも昨夜調べたことだ。

 ベッドに倒れた。サングラスを外した。暗い部屋。暗い天井。光の線がない天井。

 目を閉じた。

 斎藤さんのことを考えかけた。考えかけて——考えなかった。考えが浮かんで、通り過ぎていった。追いかけなかった。

 カモミールの匂いはしなかった。今日はハーブティーを飲んでいない。でも、身体の奥の「ああ」に似た何かがあった。暗さだ。ちゃんとした暗さに包まれている。それだけで、身体が「ここは夜だ」と思い始めている。

 意識が沈んでいった。ゆっくり。抵抗なく。

 沈んだ。


 夢を見た。

 久しぶりだった。最近の睡眠は浅すぎて、夢を見る深さに届いていなかった。レム睡眠に入れていなかったということだ。知識としては分かる。でも今は、知識じゃなくて、夢そのものの中にいた。

 カフェにいた。Lumenに似ているけれど、少し違う。カウンターがもう少し長くて、椅子がもう少し多い。暖色の照明は同じだ。

 カウンターの中にマスターが立っている。隣の席にはあのトラック運転手がいて、コーヒーを飲んでいる。反対側の隣には、知らない人が座っている。作業着を着た女性。工場で働いているように見えた。その隣にも、その隣にも、知らない人たちが座っていた。全員、疲れた顔をしていた。全員、何かを飲んでいた。

 私もカップを持っていた。中身は空だった。

 マスターが気づいて、注ぎ足してくれた。琥珀色の液体。温かかった。

 それだけの夢だった。何も起きない。誰も何も言わない。ただ、疲れた人たちが同じカウンターに座って、同じ時間を共有している。

 それだけのことが、夢の中ではひどく満ち足りていた。


 目が覚めた。

 時計を見た。14時38分。

 5時間。

 5時間眠った。途中で一度も起きなかった。3時間で目が覚めるのが「普通」になっていた身体が、5時間止まらずに眠った。

 天井を見た。暗い。マスキングテープが効いている。光の線がない。

 起き上がった。身体が軽かった。「軽い」という感覚を忘れていた。いつの間にか、重いのが普通になっていた。重さに慣れていたから、軽さに気づけなかった。

 立ち上がった。ふらつかなかった。

 洗面台に行った。鏡を見た。

 目の下のクマが——消えてはいなかった。一晩では消えない。でも、目の焦点が合っていた。鏡の中の自分と、ちゃんと目が合った。久しぶりだった。

 シャワーを浴びた。お湯が気持ちよかった。気持ちいい、と思えたこと自体が久しぶりだった。


 シャワーから上がって、スマホを見た。

 彼からメッセージが来ていた。「体調どう?」

 短いメッセージだった。前みたいに「夜ごはん食べない?」じゃない。ただ、体調を聞いている。あの金曜日の夜の会話のあと、彼なりに距離の取り方を変えたのだと思った。

 「今日は寝れた。5時間」

 送ってから、自分がそれを報告したことに少し驚いた。眠れなかったことは言えなかったのに、眠れたことは言えた。

 彼から返事が来た。

 「よかった」

 それだけだった。それだけで十分だった。


次回:「灯(ともしび)」/7月31日(金)6:30更新

第10話 灯(ともしび)

 サングラスの朝を始めて、2週間が経った。

 毎回うまくいくわけじゃない。5時間眠れた日もあれば、4時間で目が覚める日もある。でも、3時間で天井を見つめる朝は減った。平均が変わった。それだけで、身体の感触がまるで違う。

 変えたのは三つだけだ。

 帰り道にサングラスをかける。カーテンの隙間をテープで塞ぐ。帰宅後すぐにシャワーを浴びない。

 三つとも、お金はほとんどかからなかった。知識としては全部知っていたことだった。ただ、知識を「自分の生活」に翻訳する回路が、ずっと繋がっていなかった。


 日曜日の昼下がり、彼と会った。

 代々木公園のベンチ。彼がコーヒーを2つ買ってきた。缶じゃなくて、近くのカフェのテイクアウト。

 「顔色、だいぶ良くなった」

 彼が言った。お世辞じゃない声だった。

 「うん。寝られるようになってきた」

 「何か変えたの?」

 サングラスの話をした。帰り道の光の話。メラトニンの話。カーテンの隙間の話。彼は黙って聞いていた。話し終えたとき、少し笑った。

 「サングラスって、そんな効くんだ」

 「サングラスが効くっていうか——朝の光を浴びないことが効く。身体には体内時計があって、光がその時計のリセットスイッチになってる。夜勤明けの朝に光を浴びると、身体は『朝だ、起きろ』って判断する。でも本当は、そこから眠らなきゃいけない」

 言いながら、自分が患者さんに説明するときの口調になっていることに気づいた。職業病だ。でも、彼は嫌な顔をしなかった。

 「つまり、身体を騙すってこと?」

 「騙すというより、正しい情報を入れるってこと。夜勤明けの身体にとっては、朝日は間違った信号なの。『もう朝だから起きて』って信号。でも実際には、そこから寝ないと身体が回復しない。だからサングラスで信号を遮断する」

 彼は頷いた。

 「なんで今まで気づかなかったの? 知識はあったんでしょ?」

 痛いところを突かれた。でも、もう隠さなかった。

 「知ってたよ。概日リズムとか、メラトニンとか、国試にも出るし。でも、それが自分の帰り道のことだって思わなかった。教科書の知識と、自分の生活が繋がってなかった」

 彼はコーヒーを一口飲んで言った。

 「IT でもそういうのある。ドキュメントに書いてあるのに誰も読まないやつ」

 笑った。久しぶりに、自然に笑えた。


 「あとね、もう一つ分かったことがある」

 「何?」

 「カフェインの半減期」

 「半減期?」

 「コーヒーを飲んでから、カフェインの血中濃度が半分になるまでに約5時間かかる。私、夜勤中の3時にコーヒー飲んでた。そうすると、8時の時点でまだ半分残ってる。帰宅して寝ようとする9時でも、まだかなり残ってる」

 「それで眠れないのか」

 「それだけが原因じゃないけど、重なってた。朝の光でメラトニンが止まって、カフェインで覚醒が維持されて、その状態で寝ようとしてた。眠れるわけがない」

 彼はまた笑った。

 「それ知ってたら、俺もっと早く言えたのに。ITの人間、カフェイン半減期はみんな知ってるよ。エナジードリンクの計算で」

 「分野が違うと、同じ知識でも使い方が違うんだね」

 そう言って、空を見上げた。六月の晴れた空。木漏れ日が揺れていた。光が目に入った。今日は夜勤明けじゃないから、浴びても大丈夫だ。光が敵になるか味方になるかは、タイミングだけの問題だ。


 夕方、彼と別れてから、Lumenに寄った。

 夜勤明けではないのに行くのは初めてだった。日曜の夕方。マスターはいつも通りカウンターの中にいた。

 「いらっしゃい」

 同じ声。同じ温度。

 カウンターに座った。今日はコーヒーを頼んだ。眠りのブレンドじゃなくて、普通のコーヒー。マスターは何も言わずに淹れてくれた。

 「マスター、あの話の続きなんですけど」

 「はい」

 「光のこと。サングラス、やってみました。2週間」

 マスターの手が一瞬止まった。それから、また動き始めた。

 「どうでしたか」

 「寝られるようになりました。毎回じゃないけど。でも平均が変わった」

 マスターは頷いた。笑わなかった。でも、目元が少しだけ緩んだ。

 「あと、カフェインのタイミングも変えました。夜勤中のコーヒーは0時までにして、それ以降はお茶に切り替えてます」

 「それは大きい」

 「看護師なのに、こんな基本的なことに気づいてなかったのが悔しいです」

 マスターはコーヒーをカップに注ぎながら、言った。

 「気づいたのが今でよかった、ということだと思います」

 説教じゃなかった。評価でもなかった。ただ、事実を事実として受け取る言い方だった。この人はいつもそうだ。


 コーヒーを飲みながら、カウンターの上に置かれた小さなカードに目が止まった。前回来たときは気づかなかった。名刺サイズの紙に、URLが印刷されている。

 「lumen-log.com」

 「それは」とマスターが言った。「夜勤で働く方に向けた健康情報のサイトです。知り合いの産業医が書いていて」

 手に取った。スマホでURLを開いた。

 シンプルなサイトだった。記事の一覧が並んでいる。その中に一つ、目に止まるタイトルがあった。

 「夜勤明けに眠れない人へ——光のコントロールで睡眠を取り戻す方法」

 開いた。読み始めた。

 概日リズムの解説。光とメラトニンの関係。夜勤明けの光遮断の重要性。カフェインの半減期と摂取タイミング。帰宅後の食事の取り方。

 全部、この2週間で私が身をもって学んだことが、体系的に書いてあった。マスターから聞いた断片が、一つの記事の中で構造として繋がっていた。

 スクロールしながら、胸が詰まった。

 この記事を、2週間前の自分に読ませたかった。いや、半年前の自分に。いや——4年前、夜勤が始まったばかりの自分に。

 「これ——こういう情報、もっと早く知りたかった」

 独り言のように言った。マスターは聞こえていたけれど、何も言わなかった。


 記事を最後まで読んで、スマホを置いた。

 周りを見た。日曜の夕方のLumen。カウンターに、私の他に二人の客がいた。一人はスーツの中年男性で、静かにスープを飲んでいた。もう一人は若い女性で、作業着を着たまま、カウンターに肘をついてコーヒーを飲んでいた。工場か、製造業か。目の下に影がある。

 あの夢を思い出した。カウンターに並んで座る、疲れた人たち。

 この街には、夜に働いている人がたくさんいる。看護師だけじゃない。トラック運転手、工場の作業員、コンビニの深夜スタッフ、ビルの清掃員、警備員。みんな世間が眠っている時間に起きていて、世間が起きている時間に眠ろうとしている。そして、たぶん多くの人が、眠れないまま天井を見つめている。

 私は一人じゃなかった。

 一人じゃないと知ったからといって、眠れない夜がゼロになるわけじゃない。サングラスをかけても4時間で目が覚める日はある。肌荒れもまだ完全には治っていない。生理周期も戻りきっていない。

 でも、構造が見えた。

 何がずれていたのか、なぜずれていたのか、どこから手をつければいいのか。それが分かっただけで、「ぎりぎり」の意味が変わった。ぎりぎりで耐えているのと、ぎりぎりだけど方角が見えているのは、全然違う。

 会計を済ませた。マスターが「気をつけて」と言った。あのトラック運転手に言ったのと同じ「気をつけて」。社交辞令じゃない、本物の。

 「また来ます」

 言って、扉を開けた。


 路地を出ると、夕暮れだった。

 西日がビルの間から差し込んでいた。オレンジ色の光。朝の光とは違う。これから夜が来る。私にとっての「朝」が来る。

 スマホを取り出して、さっきの記事をブックマークした。夜勤明けに眠れない人へ——光のコントロールで睡眠を取り戻す方法。あの記事の隣に、別の記事もあった。「シフトワーカーの食事タイミング」「夜勤と女性ホルモンの関係」。まだ読んでいない。読もうと思った。

 歩き始めた。

 サングラスは鞄の中にある。明日の夜勤明けに、また使う。1,500円のサングラス。マスキングテープ。それだけで、世界が少しだけ変わった。

 少しだけ。でも確かに。

 帰り道、ふと振り返った。路地の奥に、Lumenの灯りがぼんやり見えた。小さな光だ。暗い路地の奥の、小さな暖色の光。

 灯。ともしび。

 夜に働く人のための、小さな灯。

 私は前を向いて、歩き始めた。


Episode 1「山岸詩織」——完

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